2チャンネル・スレッドの諸君へ 2004年12月25日 宇都宮 泰 いつも愛読・引用ありがとう。 私は自宅にネット端末を引いてないこともあり、滅多なことではスレッド・ページなど見ないが、″大した事は書かれていない″としながら引用があるなど、愉快な状況なので、指摘されるポイントにいくつか答えたい。 *痛い文章* 痛い文章とはどのような文章を指すのか私にはよくわからないが、「文語」表記のことかと推論する。貴ページはBBSということもあり、その記述のほとんどが「口語」でなされている。しかし活字表現は日本語に於いてデフォルトは「文語」であり、口語の本格的導入は「漫画の吹き出し」からか、と思われる。「使用してはいけない」とは思わないが、口語の場合、リアルタイム対面使用を原則とするため、情報量の不足を語調や表情あるいは手振り身振りで補完することになる。ところがBBSではそのような補完情報が附加されないために「ヴァーカ」などの強調のみエスカレートするのではないかと思われる。 私は自身の所有する知識やノウハウ、経験などの情報に価値を認めているし、それが検証可能か不可かも明記している。これらの価値の伝送に普遍性を求めることは必然であろう。普遍性のための最低限の「文語」の使用であるし、「プロフェッショナル」を目指す者は当然読破可能でなければならない。 *プロフェッショナルであること* スレッドを読んで感じることは、それぞれの記述者の立脚する位置が極めてアマチュア的論拠で、その主張によって何を目指すのか、あるいは何を形造ろうとしているのかわからない。 私の公表している「マスタリング論」は「プロフェッショナル・マスタリング」を目指す若者達に向けられたもので、本来の意味、現状を明快に解いたものである。その中には現状として「ありがたくたてまつられた一流メーカー製のプレスCD」であっても、その多くでプレスマスターとレプリカ(CD)の間に差分があり、しかもC1,C2などのエラーが出ないという矛盾と、その謎解き(「JON&UTSUNOMIA」を参照する必要があるが)が実名入り(それぞれ許諾済み)で記述されている。 実際に多くのマスタリング・スタジオではエラーカウントも実施されていないし、上がってきたプルーフ(テスト・プレス)の検査すら行われていない。実際に大手プレス会社でも1年ほど前からプルーフを要求しないと送り返してこなくなった。誰も検査しないからである。しかし、工場によっては平然と差分のでるプレスを行っている。 この事実はプロフェッショナル仕事としては明らかに「劣化」であるし「不良品」である。耳で識別できるか否かは問題ではない。(多くの場合、耳で明確に識別可能)サーボ電流云々などという手緩い変化ではない。 私は言いたい。多くの試聴現場で使用されているソースの多くは既に相当劣化している!実際にいくつかの大手レコード会社からは、「カセットやMDにコピーしてもあまり変化しないようにマスターを上げてくれ」という注文がくるのである。(私は一見さんの仕事や営業は現在していない。マスタリングよりもレコーディングそのものあるいは制作が多い。)このような注文に対しては何等かの情報量抑制を行うしかないのが現状である。このレコード会社の論法は「マスタリング論」に記載してある。 プロフェッショナルとアマチュアの決定的な違いがもう一つある。扱う対象が録音かミックスかCD−R書き込みか、それが何であろうと、要求される技術や諸元が達成できなければ、それはすなわち制作者あるいは技術者としての存在そのものが否定されるのがプロフェッショナルである。アマチュアでは笑ってゴマ化せ、それで済む。なぜなら責任はそのアマチュアを雇用した側にあるからだ。「マスタリング論」に於いてその制作や技術を実現するのに必要なのは本来の意味と論理、そしてそれを裏付ける検証だと解説している。スレッドのページを読む限り「良い音」の定義もなされずに「良い音」をたてまつり、デジタル・オーディオ・システムの虚弱さも顧みず「バイナリ・コード」レベルの同一性=音の同一性が論じられる。 私はすぐにこれらの不毛な議論に対する「反論と動かぬ証拠」を提示できる技術的余裕がある。「良い音」主義者に言いたい。それをどのように定義し検証するのか。「バイナリ」論者に言いたい。そのバイナリ・コードがメディアから抽出されるまでに、一体どれくらいのエラーコレクトを経ているのか。そもそもバイナリ・コードそのものには時間軸情報は含まれない。現実にはワードクロックに依存する要素が多大だからだ。なぜ業務機器の多くにはワードクロックの入力が備わっているのか。仮に周波数が同一であっても、内蔵クロックと安定した外部クロックの間には比べようもない品質(ジッター、ドリフト、ノイズ)差があり、それによる音の違いが無視できないほどのものだからである。 私はデジタル初期(’76年、公式に出版物があるのは’77年ビクターJVC RVL−7107)から制作活動を行っており、デジタル録音採用にあたり様々な取り組みを行っている。初期には何のエラー訂正も持たないシステムの試作を、その後製品としてのPCMプロセッサを試用してきたが、いずれも個人的には正式採用には至らなかった。それは記録メディアとしての虚弱さと未解明音質決定要因が多すぎるからである。この状況は今日まで続き、バカだキチガイだと言われ続けるも、「JON&UTSUNOMIA」「紅花林」「TOKUSA NO KANDAKARA」と全てマスターはアナログ6.3mmである。無論、所属する組織の備品であるS社D−827やPT−HDなど使い放題であるにもかかわらずである。あげく昨年から正式採用した機種がA社HD24なのだから。HD24は私の設定する全ての検証やテストに合格した初めての機種である。当分アナログとの共存が続くのだろう。これらデジタルと共存し、信頼出来るアナログとは、独自のイコライゼーション、独自のテープ仕様(現在別注、個人輸入)ヘッドの成型などのノウハウによって支えている。これらのCDに納められた、いや25年前に作った「AFTER DINNER / GLASS TUBE」さえも今の一般的録音技術で容易に凌駕することはできないことを自負している。これがプロフェエショナルとしての誇りと自信だ。 *聴いてわかるか* 酒造会社、香水メーカーなどのテイスターの例を見るまでもなく、明らかに特定の感覚について突出した能力を持つ者の存在が知られている。おそらく私自身も自分の専門分野に於いてその一人であろう。音楽そのものに関わる感覚としても、いわゆる絶対音感、純正律を合わせ持つ。これらがあるから音楽の輸出に対応できるのだと思う。 これらの感覚とは勝手に湧いて出てきたものではなく、必要に迫られ同化獲得したものと思うし、感覚というよりももしろ「思考」に近い。例えば純正律感覚は「最初からそこにその音程があるのではなく、あるべき音程にハマりこむ感覚」+「論理的ルーティング・パズル感覚あるいはシナリオ感覚」である。前者は時間軸が希薄だが、後者は時間軸構造そのものの感覚である。同時に回路テクニック的には「浅い強制同期のかかったブロッキング・発振器」に近く、PLLではない、という思考に近い。分からない者には???であろう。 いずれにしてもその思考自体記号化されたものではなく、一般人が単に「ド」という記号を思い浮かべているとき、その「 」がどのような経緯で生じた「 」なのか、何と協和しているのかを同時に思考している。従って音名のドなどどうでもよいのだが、コミニュケーション上音名や譜面を使う。結果としての周波数も異なるし、なにより発生する「美」の度合や「意味」が異なる。 10年くらい前まで「耳鳴り日記」なるものをつけていた。1日の終わりに(あるいは寝起きに)オシレーターに周波数カウンターを接続したものを用意しておき、自分の聴覚に存在する耳鳴りの周波数を測定し書き留めておくのである。物理的には存在しないはずの耳鳴りとスピーカーから出力された発振音の間で差音が生じるのである。ビート0で測定出来るので有効数4桁以上の精度だ。耳鳴りが検出できない日など無い。 自分の聴力を維持するため車で移動する際も、オーディオなど聴かない。予習などの必要がある場合を除き、なるべく耳を休めるよう心がけている。聴くときには集中して聴く。BGMなど極力排除する。 *聴能形成* 同僚であった故北村音一氏は聴能形成の研究と策定で知られるが、彼とはこの「形成」をめぐり何度と無く激論を交わした。私の主張は、彼の形成法では感覚の獲得以前に記号化がなされ、それは音楽思考に結び付かないのでは、というものであった。彼の尊敬すべき点は、アカデミズム団体に背を向け表現者の鎧を纏う私ごとき者のコンサート(扇町ミュージアムスクエア/アフターディナーライブ)に自ら入場料を支払い、その場に構築された音場と音楽を観察、自らの目標と私の目標の一致点を見出だし、方法論が全く異なるにもかかわらず、より高度に達成されていることを快く認められた点だ。 感覚の獲得そのものはアカデミズムとは何の関係もない。アーティストは一般人と異なる能力を持つからアーティストなのであって、それらに一般的尺度を当てはめることは過っている。アーティストはその自覚を持つべきであるし、それが形而上の産物たるゆえんである。そこからのみ価値は産まれる。 *もう一つの事実* オーバーオールに録音制作をとらえると、最も難易度の高いプロセスはオリジナル録音時のマイクアレンジである。私自身思うように立てられるようになったと自覚出来るようになるのに、およそ10年かかった。その間のあがきとして、某社のコンデンサ・マイク・ユニットの設計主任に押し掛け弟子入りし、設計手法を学び(実際に試作させて貰ったり、特性測定なども・・・)などの経験も生きている。学ぶとはそういうことではないか。 心配事がある。近年マイク・アレンジを学びたがる学生が極めて少ないのである。大学4年間が終わろうとするころにやっと気付くのはまだ良い方で、素材は「買う」あるいはダウンロードするものと開き直っている。TVやラジオの効果マンからしてそう言い放つ者がいることに驚く。大衆に見放されるのも無理ないかもしれない。 なぜスレッドではこの問題について議論しないのか。営業以外の前出の作品のほとんどは全くイコライザーなどのフィルターは使用していないか、使用しても極めてわずかである。それほどにマイクアレンジを吟味している。 この道を志す若者見ていて不安になるのは、「クライアントがいいといっているから」とか「料金分はこれくらいだから」などと言い訳し、ベストを尽くそうとしないことだ。では聞く、お前はいつベストを尽くすのか? アマチュアはいい。その焼き込んだCD−Rが何千枚もプレスされ、その内容物で未来を左右されることもない。いい加減な(ベストとは必然系によって発生する単一存在)つくりの、いい加減なCDが横行していれば、リスナーは育たないし何を買ってよいかわからない。何を信じて良いのかもわからない。売れなくなるのはこれまた必然だ。 *目と耳* 測定はそのほとんどが視覚データとして出力される。また現代社会の価値構造もしかり。音の問題も同様で、PCベースの多くは音の視覚化が充実している。編集や加工は波形を見ながら視覚的に行うことが標準となっている。人類はいつから目で音楽するようになったのだろう。確かに「聴く」ことは相当の訓練を要するし、またそのエキスパートでさえ聴くことに集中できる時間には限度がある。 若者達の編集を審査していると、頭が切れていたり、余韻が残っているのにカットアウトしているものがよくある。聴いて判断せず、波形で判断しているのである。編集の目的はあくまで物理量ではなく心理量の制御にある。そんな若者に頭が切れている、と指摘しても、聴こえないと言いきるし、あげく波形を表示しズームアップし、わずかな冒頭随伴騒音が入っていないことを指摘しても「そんな面倒なことはできない」と言い放つ。やりとりがそのころにはその若者にも聞こえるようになっているのだが。「聴く」ということに自信がなく「視覚」を優先させた結果なのだろう。 実際にシーケンス用の音源データは、発音タイミングを合わせるために冒頭が削り落としてある物が多い。彼らの中ではそのような音が標準になっているのであろう。 視覚で説明できると説得力があり教え易いことは事実であるが、聴覚作品の王道とは私には思えない。 一部にはそのような表示は見なければ良い、という意見もあるが、感覚量に裏打ちされた正確なタイミングをリアルタイム入力しようとしても、音を聴きながら集中してマウスをクリックしても正確にその位置にはマークされないことが多い。前出のHD24が採用された理由の一つにこのリアルタイム性がある。(HDR考を参照)ズレはmsecオーダー以下である。 われわれはいつからリアルタイム性を譲歩したのだろう。サウンド&レコーディングマガジンの8月号ジョン・ケリーのインタビューを見るまでもなく、視覚で作業することは「危険」なのである。 *有名人か?* すごい評価方法ではないか。私自身有名かどうかは知らないが、敢えて言えば制作した音楽家やバンドが有名になることは望むところだ。しかし本人が個人として有名になったりスター扱いされることは避けたいと思っている。「ハングリー」(笑)が身上だからだ。昨年東京でのトークショーが終わったあと、観客の一人に「あなたは本当にロックン・ローラーなんですね!」と言われて嬉しかった自分がいる。「アフターディナー」や「少年ナイフ」なら国内外の多くの人が知っているであろう。 同時に肩書きや所属団体をひけらかす輩にも辟易しているので、極力表示しないように心がけている。また人脈やコネも好きではないので極力排除している。これらから、アカデミズム団体からも自主除名した。表現者、制作者にとって重要なことは、迎合ではなく、高い芸術性とそれを支える高い技術力、そして独自性だ。それが流行らない時代なのであっても、王道であると信じている。一般的にはそのような人を「変人」と呼ぶかも知れない。 *「マッド〜」であること* よく私の冠詞に「マッド〜」が付加されているが、自称ではない。他称である。英国に於ける「サ〜」のような「称号」と思っている。当たり前の、凡庸な作品しか作り出せない作家には絶対にそのような冠詞は付けられない。芸術と狂気性の関連は古くから指摘されているが、その観点から見ても名誉なことである。ちなみに当webも運営管理デザインは友人のK氏であり、私はただのライターであるため、このような称号を付加されているのであろう。 しかしこの冠詞の言われは、芸術性よりも、自分の才能の無さを独自の技術力によってカバーしようとする強引さにあるかも知れない。例えばスレッドにもマスタリング論の勉強会の参加者がいたようだが、ASCII/MSXでCD/CD−RのC/Vエラーをカウントする装置を自作や、レーザーマイク(ガスマイク?)の開発などやっている変人との記述があるが、作らずにどうやってカウントするというのか。スレッド参加している人達はその程度のモノは簡単に作れるのではないのか。私のMSX版カウンタは、外付けハードカウンタを使っているので、読み落とし無く、それぞれのエラー(最大枚秒88200カウント)一つ一つにタイムスタンプを打ちTXTファイル化し出力できる。当然リアルタイム表示もC/Uビット、エラーの分布のグラフィック表示も可能である。この程度のツール、市販製品が無いなら品質管理のためには当然の努力であろう。なぜインテル/WINで作らないか、は、それらの内蔵ドライブとレッドブック指定プレーヤーでは読み込み方が異なり、PCでは正常に読み書きできても、古典的オーディオCDプレーヤーのアナログ・サーボで読めないディスクはスクリーニングで排除し理由を分析しなければ品質を保証したことにならないからである。そのためには電源絶縁性がしっかりした、全固体メモリーで動作できるMSXはある意味理想的である。そのMSXを今でも使用している事が変人なのか、あるいは一介の表現/制作者がそのような分析装置(実用品としてのツール)を作り運用していることが変人なのか。これが「痛い文章」なのか。・・・・私には理解出来ない。 最善を尽くすことは表現/制作者の義務と考えている。 このような努力や利権、力関係に束縛されていることが、音楽の進化や発展を阻害する原因と私は仮説を立てている。多くの美学者や評論家は口を揃えて「90年以降音楽は進化を止めた」と断じている。私はその中に入らないように努力しているだけだ。私は一人になっても進化を続ける。とりあえず市場の評価は、それを支える最低限の売り上げをカバーしている。 *私は、貧乏かあるいはリッチか* よくわからない。しかし、2台の2インチマシン+3トンを超えるスタジオ機材、4トンを超えるライブ機材、B&K、アンリツの原子時計をはじめとする多くの測定機材、家2軒+ガレージ5軒+倉庫+セルフ・スタジオ、自家用車1台等をとりあえず維持管理するくらいの経済状態。ギブアップ寸前との説も。 *次回作について* 次回作は共同制作(鈴木昭男、HOREN、赤レンガ倉庫)の鈴木昭男のソロライブDVDで、私の采配としては初のフル・デジタル・プロセス(営業は除く)で、現在テロップの翻訳と校正、タイトル作画の作業中で2006年春頃、世界配給予定。初回限定で完全非圧縮版のCD−Rプレゼント(要申し込み)がある。この作品の特徴は音声(24bit2ch)が3組収録されており、コンサート会場の異なる場所や会場の外の音で楽しむことができる。 また前出鈴木氏のアシスタントをしていた山崎君(クラシック・ギター/前衛音楽)のデビューアルバム(英国WIRE誌サポ−ト、同2005年3月、日本盤も発売)のマスタリングが終了している。  前出AFTER DINNERのグラスチュ−ブとデビュ−シングルのリマスタ−・リバランスが終了。4月22日に発売開始予定。23年を経たソ−スであるが,バランスや時間軸配分の変更により,23年前の新鮮な刺激を取り戻している。是非聴いていただきたい。技術的にもオリジナル・ハ−ド30bitデフラグメンテ−ションマスタ−からのダイレク・ストリ−ムCD−R納品で、ソニ−社bit to bit転送によるプレス金型作成がどのような音になるのか楽しみな今日このごろだ。 私はこんな仕事をしながら技術開発も行い、かつ自分のソロ作品、作曲などを行いながら、後進も育てている。批判したいなら論拠を明確にし、検証を忘れずに行ってからどうぞ!